紀行

水戸街道を歩く(6)

土浦~中貫宿~稲古宿~府中宿

 平成29年4月2日 池内淑皓

2017年(H29)2月7日(火)今日も晴れ、昨日ゴールした土浦道路元標から歩き始める。

「水戸街道全図」 赤印は既に歩いた宿場、黒印は今回歩く道 
石岡は正しくは「府中宿」古代、常陸國国衙のあった所 

今日歩く行程図 (三里三十町15.1km )

土浦城下を抜けて、本陣前を直角に北上し、新川を新川橋で越えると間の宿である「真鍋宿」に到る。  撮影場所は城の北門があった所

「真鍋間の宿」緩やかな坂道に沿ってひっそりとある。 美味しい「かりんとう屋」があるが朝が早いので閉店であった。

「善応寺」 真言宗のお寺。 創建は南北朝以前と云われるが、寛文十年(1670)土浦城の北
鬼門除けとして、観音堂を寄進してから真鍋観音として信仰を集めた。

「照井の井戸」 寺の駐車場の奥にあり、今でも清水がこんこんと湧き出ている。
城主の土浦数直は寛文十年ここから木樋で水を城内に送り、飲料水にしたと云う。

   
真鍋を過ぎ、坂道を登り詰めると、「茨城県立土浦第一高等学校」の門が見えてくる。明治30年茨城県尋常中学校土浦分校として開校、明治33年中学校となった。校舎は現存し貴重な明治建築という事で、国指定重要文化財(現在補修中)となっている。 

「板谷の松並木」 水戸街道では貴重な松並木である。良くぞ残してくれた

   
「板谷の一里塚」 松並木の先に両塚が現存、 江戸から19番目

「中貫宿」国道6号線から外れてひっそりとある。

「中貫宿・本陣本橋家」 元治元年(1,864)水戸天狗党により焼き討ちに会うが、すぐ再建された

屋根は銅で葺いてあるが昔は茅葺、間口7間半、奥行き5間半で寄棟造り

「下稲吉一里塚跡」 中貫宿を出ると一旦国道6号線に出てまた側道に入る

         
「稲吉宿」の地図  本陣は残っているが宿場としての遺構は全くない、お店もない

「稲吉宿」 本陣阪本家

   
「本陣・坂本家」 屋根はトタン葺きになっているが、中貫の本陣と同じ式台付の玄関がある

旅籠屋であった木村家住宅(皆川屋)、 江戸時代はここに17軒の旅籠があったと言う。

恋瀬川を恋瀬橋で渡れば国府宿だ、粋な名前だが国付瀬から来ているらしい
背景の山は筑波山(876m)

府中宿地図

「国府宿」 常陸國国府のあった所、茨城県石岡市国府

         
   
昭和4年3月の大火で壊滅的な損害を受けた、わずかに残った建物がちらほら残るのみとなっている。

それでも所どころ昔の形見が残っている、立派な道標に導かれて散策してみよう

「興国山清涼寺」 元徳二年(1330)第14代平高幹(大掾氏(おおぼり))が尼寺ヶ原に真言宗として建立したが文亀元年(1501)曹洞宗に改宗した。境内が広い 本尊:虚空蔵菩薩

「府中城・陣屋門」 奈良時代はここに国衙があり、中世は府中城があった。現在は石岡小学校となり、 陣屋門が唯一残る
江戸時代の府中城は元禄13年(1700)水戸頼房の5男頼隆が初代府中藩主となった、石高2万石であるが城は築かず陣屋を作る、親藩のため参勤交代はなく、城主は江戸住まいであった。

「常陸國国衙の跡」現石岡小学校校庭

常陸のみやこ一千有餘年之地

「常陸國国分僧寺址」 国分寺及び国分尼寺は天平13年(742)聖武天皇の勅願により鎮護国家を祈るため、国ごとに置かれた寺院。僧寺は「金光明四天王護国之寺」

     
   
国分寺金堂跡で、薬師如来が収まっている

「国分尼寺跡」 尼寺は法華滅罪之寺
広い敷地全体が国指定特別史跡に指定され、金堂跡、講堂跡等の位置が表示されている

     
「講堂跡」

今回は府中宿で歩行終了、日も西に傾いてきたので寒くならないうちに横浜に帰ろう。

           
この項完

水戸街道を歩く(7) 府中宿~竹原宿~堅倉宿~小幡宿へ続く