藤沢宿をあるく(4)
藤沢郵便局の前身本町郵便局

 八柳 修之

明治政府は明治4年1月「郵便創業の布告」を発し、各宿の旧伝馬所には郵便取扱所が置かれた。政府は全国津々浦々に郵便制度を普及させるため、財政上の理由から地域の名士や大地主に土地や建物を無償で提供させ郵便取扱事務を委託した。郵便局の財産や事業の権利などが、世襲や売買の対象となるというものであった。局長は官吏であるが、俸給はなく経費一切は「渡し切り」という方法であった。いわゆる小泉郵政改革まで続いた特定郵便局〈三等郵便局〉の始まりである。

本町郵便局舎は4年以来、仲久保の堀内宅前にあった。その後、郵便局長には、寺田三郎兵衛、川上久兵衛、川上安次郎、堀内忠道、大正5年の広瀬藤右衛門まで地元の名士10名が見られる。大正12(1923)の関東大震災後、局舎は東坂戸町の東側、平野藤左衛門(12代当主)が敷地を提供して再建された。大正14年からは藤左衛門が局長を勤め、その後、息子の平野廉蔵(13代)が継いだ。平野(屋号牧野)家は問屋場の取締を務めた名士でもある。平野牧野屋は、銘酒「独り占」の醸造元、坂戸七ヵ町の元老として幕末ごろまで問屋場の町役人を勤め、商売も繁昌した。以下、平野武宏氏(元湘南ふじさわウオーキング協会会長)が、兄平野輝重氏(14代)から聞いた話です。「写真は当時の立て直した建物、2階には電話局もあった。藤沢郵便局長だった藤左衛門は昭和3年に死去、第13代の平野廉蔵(父)は東京商大の学生でしたが、藤沢郵便局長と牧野屋本店を引継、卒業後も続けた。

昭和12年に藤沢郵便局が二等局に昇格、国の直轄となり局長を辞し逓信省に就職した。藤沢市役所(前藤沢公民館)から抜ける都市計画道路第一号にかかるため、牧野屋本店は取り壊され終戦となった。郵便局はそのまま残ったが、本町に集中していた市役所、警察、消防などが藤沢駅近くに移転して、郵便局の建物は平野家に戻された。台町と藤沢駅の間に郵便局が欲しいとの要請を受け、平野家は現在の本町郵便局の土地を売却した」とのことである。

参考文献:「移り変わる藤沢の街〉山本悦三、三信印刷。 「藤沢市史」別編2藤沢市
「藤沢郷土史」加藤徳右衛門、図書刊行会 「わがまちの歩み」児玉幸多 藤沢文書館、藤沢郵便局HP


 

昭和27年頃の藤沢郵便局
 

現在の本町郵便局
昭和20年代前半の本町郵便局