合成酒は藤沢で初めて造られた

八柳修之
またまた、藤沢のお酒の話です。江戸時代、幕府は酒株制度を設け、酒株を持つ者ののみに酒造りを行う事を許可した。鑑札には酒造米高が書かれ、米の需給調整を行う意味もあった。
この酒株制度は明治8年(1875)年に廃止されるまで続いた。当時、酒株を持つことが出来た者は、有力者、地主、近江商人が多かった。藤沢宿でも坂戸町で問屋を務めた平野屋(屋号牧野屋、前平野会長本家)は、小田原北条氏に仕えた士族であったが、天正18年(1590)、秀吉に降伏後、大庭で酒造業を始めたと言われ、近年まで木桶があったという。また、堀内家古文書に藤沢宿出店商人名として、紀ノ国屋仁兵衛(1725)、近江屋喜兵衛(1745年)、キノ勘五郎(1748)、日野屋善太郎(1755)などの酒造業者の名が見られるという。
宿場町、酒と女はつきものである。天保6年(1835)藤沢宿の飯盛旅籠数は27,8軒あったとされる。需要を賄うため、味の良い下り酒が入るようになり、下り酒は地元の酒を駆逐していった。1931年(昭和6)藤沢で清酒を造っていた工場は、これから述べる大和醸造を別とすれば、桜本酒造場(4名)、加藤酒造場(3名)にしか過ぎなかった。

1919年(大正8年)、伊丹の白雪で知られる小西新右衛門らは、大日本醸造株式会社を設立し、藤沢町大庭(現城南)に本社・工場を建設した。周辺のサツマイモを原料としてアルコールや焼酎を生産することとした。その後、米騒動が起きるなどの米不足、食糧難対策を背景に、1921年(大正10)に三共(製薬)と共同して、合成清酒の製造試験を開始した。理化学研究所のビタミンの発見者として知られている鈴木梅太郎博士が発明した清酒合成剤を使用し、1年余にわたる試験の結果、製品化の見通しが立ち、1923年(大正12)、高橋是清、鈴木三郎助ら財界の協力を得て、大和醸造株式会社を設立した。新清酒あるいは理研酒と呼ばれる銘柄「新進」の製造を開始した。その後、1929年(昭和4)には、大和醸造は大日本醸造を吸収合併した。理研酒の特許権は大和醸造が持ち独占していたが、1935年に特許が理研に返還され、特許料を支払えば理研酒を製造できるようになり、理研酒は合成清酒の主流となった。
昭和12年、大和醸造の工場敷地は7000坪、建坪2637坪、従業員は職員13名、職工79名、年間合成酒4,814kl、焼酎8664,kl、このほかポートワイン、ウィスキーも生産していた。合成清酒「新進」は、米を使わない酒、二日酔いしない酒と宣伝され、陸海軍の御用ともなった。

戦後、食糧難時代を反映し、合成清酒の販売は伸びたが、やがて米余り時代に入るとともに出荷は減少、1961年(昭和36)、味の素が設立した昭和酒造(現在のメルシャン)に吸収合併された。 完


昭和10年頃の大和醸造

 
藤沢市城南にあるメルシャン
 


出典:「藤沢わがまちのあゆみ」児玉幸多編 発行 藤沢文書館
    「藤沢市」第6巻 藤沢市
    「藤沢市制50周年記念写真集」 藤沢市
    HP  メルシャン、小西酒造