寄り道・道草 40
賀来神社と鵠沼の開発

境川右岸を歩くと境橋右手から鵠沼駅へ出る道がある。鵠沼駅の地下道を出た所に真新しいサーフボード型の道祖神がある。道祖神は古いものとお決まりなのだが、この道祖神は平成16年に造立されたものである。
しかも、ご親切に英語の説明まである。
This is the God that protects people passing through this way and living on this area.
(この道を通る人や周辺に住む人を守る神様です)

この道祖神の脇の石段を7〜8段上ると賀来神社である。境内に一際高く建っているのが「鵠沼海岸別荘地開発記念碑」である。開発者の伊東将行(東屋主人)らの彰徳碑であるが、黒ずんでいて判読できない。

1889年(明治22年)、鵠沼海岸の別荘地は日本最初の分譲型の別荘地として、伊東将行らによって開発された。しかし、10年後の1898年の段階でも別荘個数は14〜15ヶ所にしか過ぎなかった。本格的に開発されたのは、1902年に藤沢〜片瀬江ノ島間に江ノ電が開通してからのことであった。

それから10年後、1912年の段階で別荘は90余軒。そして分譲価格は当初、3001円くらいであったものが、20年後には3001,000円余の相場に達していたという。20年間におけるインフレ率は分からないが、開発会社はウハウハだったに違いない。

ところで、この鵠沼の土地の大部分は大給(おぎゅう)(元松平)家の所有する土地であった。大給家は豊後大分の府内藩主で、大給近道(18541902)とその孫の大給近孝(1879〜1958)が、この土地を買占めたのであった。

大給家は1884年に子爵、その後伯爵となっている。大給家の1895年の地図によると、同家の所有地は現在の松が岡1〜4丁目、藤が谷3丁目辺りにかけて約105,000坪あった。
1882年(明治15年)測量の参謀本部陸軍部測量局の2万分の1地形図によると、現在の鵠沼松が岡、藤が谷地域は引地川と境川の上流から運ばれた土砂が堆積した砂丘、荒涼とした土地であった。

ところで鵠沼という地名であるが、「鵠」は「ククヒ」と発音し、白鳥の古名である。この辺りは沼が多く、白鳥が沢山飛来したのが地名のおこりといわれている。

賀来神社は神社に掲げられた由来書などによると、もともと大分県の賀来荘(荘園)が、貞勲11年(869)、宇佐八幡宮の分霊を戴いたものであった。

徳川時代に三河松平家が賀来荘の藩主となり、六代目松平近涛(ちかもと)が安永九年(1780)に江戸屋敷に分祀した。賀来神社は大給家(元松平)の氏神であった。そして江戸神田淡路町の大給家邸内にあった分霊を、1905年(明治38年)に鵠沼のこの地に遷座し、鵠沼別荘地の守護神とした。

境内の手洗い鉢には、戸田家連中、安永八年の銘があり、神社勧請のときのものと考えられている。蛇足ながら、片瀬海岸2丁目の約3万坪の開発は、山本庄太郎によって行われた。(寄り道・道草3「山本公園」参照)    (730 八柳)

参考資料:
「藤沢史跡めぐり」 藤沢文庫刊行会編
島本千也 湘南の別荘地化 「湘南の誕生」藤沢市教育委員会
小林政夫 藤沢市の地名 藤沢市教育委員会 生涯学習大学カワセミ学園資料