寄り道・道草 39
7月21日は白旗神社の例大祭であった。今年はNHK大河ドラマ「義経」の影響もあって、観光客もあり賑わいを見せていました。
白旗神社の祭神は、もとは相模一之宮の寒川神社の「寒川比古命」、その後、源義経も祭神として加わっている。
本殿は新しいと思ったら、昭和56年に大改修されたもので「流れ権現造」という様式だそうだ。
本殿の石段の下、左に新しい源義経公顕彰碑がある。案内板にはこう書かれている。「文治5年(1189)閏4月30日、奥州平泉、衣川の高館で、藤原泰衡に襲撃された義経公は自害して悲壮な最期を遂げた。
その御骸は宮城県栗原郡栗駒町の御葬所に葬られ、また一方、御首は奥州路を経て、同年6月13日、腰越の浦の首実験後に捨てられたが、逆流し白旗神社の近くに流れ着き、藤沢の里人により洗い清められて葬られたと語り伝えられる。
本年(平成11年6月30日)、源義経公没後810年を記念し、両地有志の方々により、「御骸」と「御首」の霊を合わせ祀る鎮霊祭を斉行し、茲に源義経公顕彰碑を建立する」。
そして、白旗神社とセットで、義経ゆかりの観光スポットとなっている「源義経の首洗い井戸」と「首塚」もついでに寄って見ましょう。場所は白旗交差点の三浦藤沢信金の東角から藤沢橋方面に5メートル余り先、注意して見ないと見過ごしてしまいますが表示杭が立っています。マンションの脇道を20メートル入った所の児童公園の中にあります。

ところで、源義経公顕彰碑の案内を読んで、みなさん、どう思われましたか。
義経が自害したのは4月30日、その首は酒を入れた首樽に入れられ、奥州路を約500キロ、腰越に着いたのは6月13日でした。この間、なんと45日間もかかったのでした。首を運んだ人は、一日平均わずか10キロ程度しか歩いていないことになります。
何故、45日間もかかったのでしょうか。あるいは意図的に45日間もかけたのかも知れません。鎌倉に運ばれ、首実験されたときはその腐敗臭にみな顔を背け、腰越の海中に投棄したと言われます。果たして義経の首であったのか疑問も出ます。こんなところからも、義経の替え玉説、生存説も出たのではないでしょうか。
そして、もう一つ。腰越で捨てられた義経の首が、白旗付近まで流れ着くでしょうか。リバーサイドコースを歩いているウォーカーなら、体験的に満ち潮のときでも境川が逆流する地点は、柏尾川との合流点の新川名橋辺りまでです。
さらに新川名橋から藤沢橋辺りまで約1.2キロ、当時の境川は蛇行していたようですから、距離的にはもっと長かった筈で、これも疑問符です。
しかし、平野雅道さんの「藤沢宿史跡ガイドブック」によると、「腰越に捨てられた首は亀に背負われて境川を遡ったという伝承がある」そうです。歴史はロマンが必要ですね。 (7・22 八柳)
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